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 曹洞宗長谷山 少林寺


 
 自分を作り上げて行くとはどういうことなのか

         仏教と共に考える


 このホームページを新しい形に差し替えるにあたり、NTTの係の方に「最近あまり更新もしていないようだからおやめになったらいかがですか」という有り難い提案を戴きました。私も興味をなくしていたので仰せのとおり止めようかと思い、これで最後と改めてトップページを開いてみました。するとそこには随分と下らないことが書き連ねてあって、十年以上前にあまり深く考えもしないで書いた自分の文章としても、これはこのまま黙って引き下がってはいけないと深い慙愧を込めて思い至ったのです。それはなぜかというと、寺の宣伝とか自分の略歴とかそんなどうでもいいことが多すぎるからです。

少林寺のホームページだから先ず寺の歴史とか保有する文化財とか、さらにはそこの住職の経歴などを開示するのは当然と思ってやったことだけど、いま考えてみるとそれと宗教と何の関係もないし、関係がないどころかかえってああ宗教とはこういうものなんだという変な先入見を増幅させるだけだと恥入った次第です。土台、宗教を他者に伝えることなんて無理なことです。たとえば、いまここで「宗教とは何か」という題で文章を書いて載せたとしても、それがどんなに素晴らしい出来であったとしても、宗教とはなんら関係ありません。ただの論文であり、私が宗教についてそう思ったと言うだけの妄想にすぎません。こういうと、それじゃあ、こんなホームページを開く必要もないし、世の中に過去よりごまんとある宗教書は何のためにあるのかと疑問に思われることでしょうが、ほんとはそんなものも一切不要なのです。宗教書を読んでわかったってなんにもなりません。宗教なんかわかろうとすればいとも簡単なことなのですから。つまり宗教は分かればいいというものではありません。わかったってそれが自分の日々の生活の中で生きて使われていなかったら、ただ宗教という余計なことを覚えたにすぎないのです。こういうと宗教を持つことまたは認識することが動物と人間の違うところだと思う方もおられるでしょうが、なに、この頃の世相をごらんなさい、動物以下の人間がごまんといるではありませんか。だから人間なんかどうでもいいんです。例えば、人間は何のために生きるのかという命題は、古来人生哲学の第一原理のように扱われてきましたが、そんなことをいくら説いて見ても、そういうあなたがどう生きているのか、そういう私がどう生きているのかという第一人称の生活実践がなければまったくの戯論なんです。何のために生きるのかじゃなくて、どう生きているのか、その中身の問題なんです。この渓声40に「食って寝ること」というのがありますが、その中で私は図らずも、人間は何のために生きるのかというと、それは食って寝るためだと明言しています。信仰とは何か、それは食って寝ることだと。

 というような按配で、この少林寺ホームページは装いを新たにしてまた続けてまいります。渓声も従来の形と小説仕立ての二つを同時に掲載してゆきたいと思っています。そして時々更新しながら、特に若い人たちと共に、これからの人生どう生きてゆくのか共に思索と思考を深め、それを自己の生活の中で道具として使い込んで行けたらいいなと思っています。生きて行くからには、なにはともあれ目前の具体的な事象をこなして行くことが求められるし、食ってゆくためにはなんらかの「仕事」をする必要に迫られます。また生活の糧を得ると言うのはそういった場所に所属するということでありましよう。しかしそれが「何のためなのか」その問いの先に宗教があるんです。生きる姿勢として。そして、己の人生態度として。


曹洞宗
長谷山 少林寺
和歌山県東牟婁郡熊野川町日足295
電話 0735-44-0773
FAX0735−44−0776

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